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院長に就任される以前は、松沢に対してどのような印象をもたれていましたか?
医療の分野ではやっぱり、非常に大変な、困難な病状の方の医療をやっているということですね。常に日本の精神科医療の中で一番困難な仕事を受け持ってきたことは間違いない。それは松沢の外にいても分かりました。
でも、重症な人を受け入れているから、そこで断片を見て形成される松沢への見方は偏見も生まれやすい。精神科の病気はみんなあんなもんだと。あれぐらい大変なんだとか、あれぐらい恐いんだとか。興奮する人もいるし、時には刑法に触れる行為をする人もいるし。それが少数だということは、松沢だけ見ていると分からないですからね。
松沢がある種の基準となっていると。
130年の歴史があるわけですよ。ずっと精神科病院というと松沢が代表だったから。精神科の病院はああいうものだというイメージを作る意味では、ネガティブな世論を作る材料にもなってきた。でも、やる側からしてみたら、“一番大変なことをやっていて大変なんだ、でもそれが理解されない…”という側面があったわけです。ネガティブなイメージの反面、たくさん社会復帰していった人たちがいるんですが、そちらの側面はなかなか見えないですからね。うん。見てもらえなかった。
外から松沢を見ていて、院長ご自身もそうした見方をされていたのですか?
そうですねぇ・・・だから、松沢はいままでちょっと内向きだったんですよね。世間がなかなか理解してくれなくても、そういう困難な中で、“自分たちは立派な医療をして、患者さんの人権を守って治療をしていくんだ”という、そういう気持ちが強かった面もあるんじゃないかな。だから今まで世間に対して、こういう医療をしている、こういう困難な人たちもいる、こういったことが必要だということを強く訴えないということもあったんですよね。なかなか理解してもらえないという気持ちが強くて、“自分たちが納得いく医療を一生懸命やっていればそれでいいんだ”、となってしまいがちだったのかもしれませんね。
でもその間にも、例えば1918年に呉秀三(※第5代松沢病院長)が私宅監置の実像について全国調査を実施して、その実状がいかにひどいか、これは改善しなきゃいけない、と社会に対する提言を行った時期もあったし、ライシャワーアメリカ駐日大使が精神疾患をもつ患者さんに傷つけられるという事件が起きて、閉じ込めなきゃいけないという世論が起きた時に、松沢と烏山病院の医局が中心となって本当の法律改正はこうだと運動したことで、通院公費負担という形で精神衛生法が改正されたということなどもあったわけです。
確かに松沢は内向きだったけれど、外に発信した結果、日本の精神科医療をいい意味で変えてきた歴史があったと。
その通り。でも、やっぱり内向きな面が強かったんじゃないかなと思いますね。1970年代初めに松沢病院から研究所が独立したんですが、それまでは松沢病院の中には研究部門があったんです。その名残で今も医局の部屋には1研や2研といった名前がついてるんですが、研究所が独立してから研究が弱くなった面が否めないですね。
それともうひとつ。診療上も少し内向きだったということ。70年代は全国的な大学紛争や、精神医学会の混乱に病院も巻き込まれるなど、色々とごたごたがありましたからね。院長が2年くらいいなかった時期もあって、もうこの人しかまとめられないということで、引退していた70代の先生がきて、それでまた正常化したわけです。そういう病院が全体として内向きになった時期に研究所の独立が重なり少し停滞した時期があって、現在は再び活発化しようとしている時期なんですね。